♪初めて二人で作った曲♪
「クラスのみんなに曲をプレゼントしたいから伴奏をつけて欲しい」
と千春さんが綾乃さんに頼んで二人で初めて作った曲が『僕らはヒーロー』。
この曲はすでに千春さんが高校1年生の時にアカペラで披露していた曲。
伴奏付きのこの曲を最初に披露したのは高校2年の学園祭の後夜祭。
二人でステージに立ちました。
その一週間前に千春さんが「こんなのできたんだけど」って
アカペラのテープを綾乃さんに渡して、前日に学校で合わせて、すぐに本番。
レポート用紙にカタカナでドレミファ、と書いた楽譜。
これがKiroroの最初の共同作業です。
この歌はみんな気に入ってくれて、いつも口ずさんでくれたそうです。
それからのち、放課後の音楽室で千春さんがアカペラで歌うオリジナル曲に
綾乃さんがピアノで伴奏をつけて遊ぶようになったのが
二人で活動するようになったきっかけです。

♪伝説の赤チョッキ♪
当時、千春さんはカラオケ大会を始め、いくつかのコンテストにも出場していました。
なかでも有名なのが高校2年生の時、
1995年(平成7年)1月29日浦添市民会館でのNHKのど自慢に出場したこと。
まさにソフト部を彷彿させるようなショートヘアに、目にも鮮やかな赤いベストを着て
ドリカムの「未来予想図Ⅱ」を歌い、みごとにその週のチャンピオンに輝きました。
合格したうれし泣きで大泣きして、ゲストの吉幾三さんに抱きついた映像は
今やお宝となりました。
他にも、仲間と一緒に「高校生の主張音楽祭」で東京の全国大会にまで出場するなど、
その才能の一端をすでに多くの人に見せ初めていたわけです。

♪運命の2500円♪
1995年(平成7年)高校3年の2学期、
卒業記念に歌を吹き込んだテープを作ろうということになり、
綺麗に録ろうと綾乃さんとドラムの子とコーラスの子を含めて4人で初めてスタジオを予約。
(この4人は上記の高校生音楽祭に出場したときの仲間でもありました)
ところが当日になって、暑かったのと部活のあとだったのでめんどくさくなって
「やっぱり音楽室でいいよ」ということになりスタジオにキャンセルの電話を入れたのですが
「当日はキャンセル料を全額頂きます」といわれたのでやっぱり行こうということになりました。
そして『僕らはヒーロー』、『「すてきだね』、『恋に恋して』の3曲を録音。
その貸しスタジオの経営者だった仲村さん(のちに最初の事務所の社長)は
その曲を聴いて惹かれるものを感じ、CDを出してみないかと声を掛けました。
その結果、翌年にKiroroとしてインディーズでCDを出す事になったのです。

スタジオ代は当時高校生にしては高いといえる1万円。
一人あたまにすると2500円。この2500円が運命を変えたわけですよね!

 (引用資料:㈱メディア・レブ発行 Kiroro写真集「ものがたり」、NHK「トップランナー」)

活動のきっかけ(高校時代)

トップへ戻る

「インディーズのKiroro」へ進む

「二人の出会い」へ戻る